絆は国籍を越えて スマトラ大津波の被災地を歩く(下)
2012.01.03 up
バイクタクシーの運転手として働くスレイマンさん。普段はイスラム寺院の前で客待ちをしている。
ズボンのポケットから取り出した財布には、ボロボロになったドイツ人建設会社社長の名刺が1枚入れてありました。「初めてできた外国人の友人です」と、バイク・タクシーの運転手として働くスレイマンさん(58)は笑顔で語った。現在、仕事道具として使っているオートバイはそのドイツ人が被災者支援として贈ってくれたものです。
2004年に発生したスマトラ沖地震・津波の最も被害が大きかったバンダ・アチェ。石油や天然ガスなど豊富な天然資源を有し、外資系企業が多数進出しています。しかし、利益が地元に還元されないことに住民らは長年にわたり不満を募らせていました。
そんな中、南東100キロに位置するインドネシア第3の都市メダンに住んでいる外国人の多くが、震災をきっかけに草の根支援に参加。オートバイの供与もその一環で、スレイマンさんとそのドイツ人社長は、今では電話で家族や仕事のことをお互いに話す良き相談相手になっているといいます。
大震災で家族12人のうち両親を含む9人を亡くしたスレイマンさん。震災後、避難所生活では海外からの支援物資を十分に受け取ったが、当時の仕事道具だった人力車は失った。これからどうやって生計を立てていけばいいのか」。そんなときにオートバイの支援を名乗り出たのが、そのドイツ人社長でした。
「いつか恩返ししたい」。それまでは、オートバイが壊れても修理して使い続けたいとスレイマンさんは語ります。
郊外の高台に、606戸の平屋住宅が建ち並ぶ「中国インドネシア友好村」があります。中国国民の寄付を資金に、同国有数のチャリティー団体「中国チャリティー連盟」と中国赤十字が共同で建設。入り口の石碑には「アチェが平和と幸せと発展に恵まれますように」と刻まれていました。
厳格なイスラムのアチェ州で商業活動の担い手であった華人。同市では1980年代以降にプリブミ(土着のインドネシア人)による反華人暴動がしばしば発生し、関係が緊迫化することがあった。被災直後には、「避難所や空港で華人は後回しにされる」などのうわさが携帯メールで広まりました。
しかし、同村では大震災で住宅を失ったインドネシア人と華人らが共同生活を行っています。
「住宅を失った被災者同士。次第に隣人同士のきずなが深まっていった」と住民の公務員、ザイヌディンさん(57)は話す。2006年に入居したが、住民同士のトラブルがあったことはないといいます。
すっかり復興し、平穏を取り戻した街で、津波の支援でつながった国籍を越えた縁が息づいていました。
インドネシアで最も美しいとされるバイトゥラフマン・モスク。津波で被災したが、海外からの支援を受け、今では被災の面影はない。
中国インドネシア友好村から臨むアチェ州の海。津波は地震発生から約20分で市街を襲い、内陸4キロの地点まで達した。
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