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中国:上海

イエン ヨウコ

職業…書き描き屋

居住都市…上海市(中国)

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右の柱に書かれている赤字の「拆(チャイ)」の文字は、 この建物を取り壊すという意味

右の柱に書かれている赤字の「拆(チャイ)」の文字は、 この建物を取り壊すという意味

今、上海には5万人以上の日本人がいると言われていますが、
その昔「魔都」と呼ばれた時代にもたくさんの日本人がいました。
その多くは、蘇州河の北、虹口(ホンコウ)の共同租界(外国人居留地)に住んでいました。
年配の方には「ホンキュ」と言えばわかっていただけるのではないでしょうか。
石原裕次郎の『夜霧のブルース』で「夢のスマロかホンキュの街か」と歌われた
「ホンキュ」こそが、虹口のことであり、当時あった共同租界の日本人居住地だったところなのです。
今よりもはるかに多い10万人もの日本人が暮らしていたといいます。

虹口や隣接する楊浦(ヤンプ)などのエリアは現在再開発が著しく行われており、
先日『迷宮のような建物』でご紹介したような「優秀歴史建築物」に指定されなかった建物は、
どんどん壊されていきます。

上海市内の古い通りを歩いていると、あちこちの建物に上の写真のような
「拆(チャイ)」の文字を見かけます。それが、立ち退き、取り壊しの印で、
そのエリアのすべての居住者が立ち退いた時点で
取り壊される運命にあることを示しています。

私はその虹口で1989年に結婚しましたが、当時の家は地域の再開発のために
1990年に立ち退きとなりました。現在、当時の面影はほとんど残ってはいません。
それでも懐かしい風景、懐かしい人に会うため、ここ3年ほどは毎年義父と共にこの地を
訪れています。


かつての虹口中学(2005年10月撮影)

かつての虹口中学(2005年10月撮影)

ところで、私の夫は「虹口中学」という高級中学(日本の高等学校にあたる)の出身です。
校舎は、あの「迷宮のような建物」からほど近い武進路、
かつては「中部日本小学校(のちの第四国民学校)」と呼ばれていた建物です。
1929年4月に上海で4番目の日本人小学校として創立されました。

まだ結婚する前のある日、虹口の街を歩いていたら、彼が
「僕の通っていた学校は、日本の建物だったところなんだよ。だから窓がね、こんなだったんだよ」
そう言って、引き戸を引くポーズをとってくれたことがありました。
当時の上海の建物の窓は開き戸であり、引き戸というのは「日本式」の特徴だったのです。
しかし当時私は、その母校がここであることをまだ知りませんでした。

子どもたちを連れて夫とこの学校の前に訪れたのは2005年の国慶節休暇のことでした。
中へ入れてもらうことはできませんでしたが、入口のところから撮った校舎は、
緑に覆われた独特の雰囲気を醸し出していました。

租界時代の経験も、夫の高校時代のことも、私は何も知りませんでしたが、
意味もなく親近感をおぼえた、そんな記憶が残りました。

しかし同じ年の11月のある日、夫が高校の同窓会を終えて帰って来ると私に言いました。
「学校、取り壊しになるねんて」

考えてみれば何の不思議もないことですが、
元が日本人の建てた学校だったということがあるからか、
何とも言えない喪失感に包まれました。

その後何度か学校の前を通ることがありましたが、
外から見る限り特に変化もなく、
「ああ、よくある立ち退きの話が頓挫してるやつかもね」なんてのんきにかまえていました。
思えば、私の母校でもなんでもないのに、私ばかりが気にしていて、
夫は同窓会に出ても、その後の情報を収集してくるということはありませんでした。


解体の始まった虹口中学

解体の始まった虹口中学

そして今年。
義父のリクエストにこたえて、今回はいつもより多くの場所をまわっていました。
さあ、久しぶりに虹口中学にも寄ってみようか、そう言って学校の前まで来た時、
私たちはその目を疑いました。

学生たちが大学受験を目指して必死に勉強していた学び舎は、
おどろおどろしい廃墟と化していました。
(虹口中学自体はすでに移転済み)


石の階段 手すりや土台が美しい

石の階段 手すりや土台が美しい

夫が在籍中に使用していた教室は2階と3階にあったというので
そこへ行ってみようと中へ入ろうとしましたが、警備の人に止められてしまい、
残念ながら夫婦で思い出をたどるということはできませんでした。
一つの時代に区切りをつけ、新しい時代が始まっているということなんですね。


後に建てられた校舎はすでに取り壊されており、残っているのはかつての中部日本小学校の建物

後に建てられた校舎はすでに取り壊されており、残っているのはかつての中部日本小学校の建物

普段、去り行く古きものにさほど執着しているようには見えなかった夫も
さすがに思うところがあったようで、この時は携帯電話のカメラで何枚も写真を撮り、
それを何度も見返していました。

警備の人の話だと、窓枠やドアなどの取り外しはほとんど終わっているものの、
この建物自体を解体するかどうかはまだ決まっていないといいます。
すでにここまで壊しておいて!?と驚きましたが、リノベーションによって
「歴史の証人」を残しながら新しい街を作るという選択も
考慮されているということなのかなと思いました。

この後、この建物がどのような運命をたどっていくのか、注目し続けたいと思います。


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